エピローグ 終業式を普通に迎えた [不登校]
息子は、無事に終業式の日を迎えました。
学校に行きだしてから、一度も
「学校に行きたくない」
とは言いませんでした。
「憑き物が落ちたように」という表現がぴったりです。
子供って不思議ですね。
さて、終業式に「通知表」を持って帰って来ました。
一年生は「できる」と「もうすこし」の2択です。
先生の配慮もあったのか、
実技(音楽、体育)の一部に「もうすこし」があったものの
ほとんど「できる」をつけてもらえました。
評価なんて、どうでもいいと思いつつ、
親としては、やっぱり嬉しいものですね。
そしてそして、欠席は8日でした。
全然、不登校じゃないしww
まあ、休み時間に「顔を出すだけ」も出席扱い、
ということですねw
息子から、学校に行かなかった時の話って、
全然、出てこないんですよ。
彼が、あの時間をどんな風に思っているのか、
大きくなったら、話してくれるのかなw
当たり前に、2年生になる息子が、
これから、どんな話をしてくれるのか、
今から とても楽しみです。
学校に行きだしてから、一度も
「学校に行きたくない」
とは言いませんでした。
「憑き物が落ちたように」という表現がぴったりです。
子供って不思議ですね。
さて、終業式に「通知表」を持って帰って来ました。
一年生は「できる」と「もうすこし」の2択です。
先生の配慮もあったのか、
実技(音楽、体育)の一部に「もうすこし」があったものの
ほとんど「できる」をつけてもらえました。
評価なんて、どうでもいいと思いつつ、
親としては、やっぱり嬉しいものですね。
そしてそして、欠席は8日でした。
全然、不登校じゃないしww
まあ、休み時間に「顔を出すだけ」も出席扱い、
ということですねw
息子から、学校に行かなかった時の話って、
全然、出てこないんですよ。
彼が、あの時間をどんな風に思っているのか、
大きくなったら、話してくれるのかなw
当たり前に、2年生になる息子が、
これから、どんな話をしてくれるのか、
今から とても楽しみです。
はじめまして。福井市在住の王島将春(おうしままさはる)と言います。聖書に書かれている預言を伝える活動をしています。
間もなく、エゼキエル書38章に書かれている通り、ロシア・トルコ・イラン・スーダン・リビアが、イスラエルを攻撃します。そして、マタイの福音書24章に書かれている通り、世界中からクリスチャンが消えます。その前に、キリストに悔い改めて下さい。2020年を悔い改めの年にしてください。携挙に取り残された後のセカンドチャンスは、黙示録14章に書かれています。
管理人様が悔い改めたら、日本全国の教会に行っていないクリスチャン達に、教会に行くように勧めてほしいです。もしも私のコメントが有益であるなら、どんどん拡散してください。
私は教会に行っていません。最後に行ったのは、いつか覚えていませんが、約2年ほどの間、行っていないと思います。この2年間、兄弟姉妹と交わらず、十分の一を献金せず、聖餐式もせず、賛美もせず、一緒に聖書を開かず、牧師の説教も聞いていません。私が心から願う事は、誰であっても、私のようなクリスチャンにはなってほしくない、という事です。神は、全てのクリスチャンが兄弟姉妹と交わりを持つ事を願っていますし、それは聖書にはっきりと勧めている事でもあります。
私は毎週、日曜日になると、心の痛みを覚えます。日曜礼拝に行くべきなのに、行かない事を選んでいる自分に対して、行かない事を選び続けている自分に対して、神に申し訳なくなります。このことに限らず、どんなことであれ、何が正しいのか分かっているのに、それを選べなかった時というのは、痛みが伴うものです。そして、その痛みに慣れることはありません。いつまでも、そのたびに、良心にナイフが突き刺さり、そのたびに神に申し訳なさを感じます。
日曜礼拝に行かない理由を赤裸々に申し上げると、行っても面白くないからです。ゲームをしたり、漫画を読んでいる方が楽しいと思っているからです。霊に反抗して、肉に従っているからです。・・・。「失格」という言葉が脳裏をよぎります。はっきり言って、私の発想は、クリスチャンとしては死んでいる発想です。勿論、キリスト教は宗教ではありませんし、何かしたから救われる、何かをしなかったから救われない、というものではないです。行いによっては誰も救われませんが、信仰によって義と認められます。でも、だからといって、教会と交わらないというのは、クリスチャンの歩みから完全に逸脱しています。そして間もなく、このファーストチャンスの時代が終わりを迎え、より困難なセカンドチャンスの時代が訪れます。
私を反面教師としてください。人それぞれに事情があるかもしれませんが、出来る限り、可能な限り、日曜礼拝に行ってください。聖書朗読会にも行ってください。ある人達は、こういう事を言うかもしれません。
「教会に行かなくてもインターネットがある」
「インターネットから得られるものだけで十分だ」
「教会に行けと聖書に書かれていない」
こういった戯言(ざれごと)を真にうけないでください。私は2年間、教会に行ってませんが、孤独感と閉塞感が付きまとっています。兄弟姉妹と交わらないクリスチャンライフは、何か良いものをもたらすでしょうか。いいえ、何ひとつもたらしません。誰に対しても、そのように断言できます。
ちなみにいうと、携挙に取り残された後のセカンドチャンスが書かれている黙示録14章について言及すれば、これは激烈な試練です。生半可な信仰では死ぬことになります。付け焼刃のような信仰では、死の恐怖に屈服して、獣の刻印を受ける事になります。獣の刻印を受けた者、または獣の像を拝む者は、永遠の地獄に定められます。そのような結末を辿る者は、誰であっても、生まれてこないほうがよいです。
信仰を建て上げるためには、教会と交わり、語り合い、愛し合い、許し合うというのが非常に重要です。聖書の知識をインターネットで集めたり、クリスチャンのビデオを見ているだけで、獣の刻印の試練に打ち勝つための信仰を建て上げられるとは、ゆめゆめ思わないでください。これまでもなく、これからもないような、大患難の大試練です。私達が生きている教会時代は信仰だけが問われましたが、患難時代は行い(work)が問われます。生ぬるくても救われるのは、私達の世代だけです。
兄弟姉妹との交わり。そして神(キリスト)との交わり。この両輪によって、はじめて強靭な信仰を建て上げる事ができるのだと確信しています。勿論、御言葉を蓄える事も、極めて有益なのはいうまでもありません。
繰り返します。私のように孤立したクリスチャンにはならないでください。また、そのようなクリスチャンがいたら、声をかけてあげてください。クリスチャンに限らず、孤立している人がいるなら、誰であっても声をかけてあげてほしいです。
日本全国のクリスチャン、および世界中のクリスチャンが、一人として孤立することなく、地元の兄弟姉妹と交わる事を、切に願っています。もしも私のコメントを通して、教会と交わるようになってくれる人が一人でもいるなら、私の間違ったクリスチャンライフにも、少しは意味があったと思えます。
by 王島将春 (2020-02-03 02:45)